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父が亡くなってから20年弱が経ちました。父の仏壇に母は毎日ご飯をあげて、話しかけています。

こんなに母が父に感謝していたとは私には父の生前はわかりませんでした。

しかし父の死後、見つかった日記が母を筆頭に私たち家族に語りかけ続けているのです。

家ではDVをふるう生前の父

本当に私の父は気難しい父親でした。

とにかく自分の考え方が絶対で、逆らうと烈火の如く怒り、すぐに殴られました。
母が殴られてる姿も何度も見ました。

もう高齢になっても母は口論で殴られて、鼻から出血をしたこともあります。

しかし父の外面は良いので、内面を知らない親戚や他人は彼のことを良いお父さんというのです。

確かに家族に対する愛情や責任感は人一倍強かったと思います。私も三歳下の弟も、経済的に困ることも無く大学まで行かせてもらえました。

ただし、私の行動が父の考え方に合わないと、すぐに怒り出すことが、嫌でたまりませんでした。

 

父親の転勤で受験も不合格に

とにかく子供の独立した人格を認めてもらえませんでした。

高校3年の時には父の転勤で転校することになりました。

高校2年で文化祭で頑張って友達もできたのに別れなければなりませんし、大学受験も不利になります。
私にとっては大きなストレスでした。

しかし母親は父の健康を気遣って家族全員で引っ越すことしか頭にありませんでした。

とにかく高校3年生の編入試験に全精力を使って、転校先の高校に進学するしかありませんでした。

ですが前の高校の授業の進捗状況はバラバラ。
受験に不要な科目まで履修を続けなければならず、すっかり勉強する気力も無くなりました。

現役受験ではどこの大学にも入れない程、勉強する気力も無くなりました。

そして、そのまま浪人生活を送ることになりました。

一年後は父親が希望する地元の国立大学に合格しましたが、その時の父親の喜びようは大変なもので、親戚や会社の人に私の大学合格を言いふらしていた様です。

それ以来、父親は私に怒ることをピタリと止めました。

 

父親と離れた生活が始まる

そのうちに家族は大阪に引っ越すことになり、私はひとりでアパート暮らしの学生生活がはじまりました。

初めて味わう解放感はとても心地よく、私は大学での勉強もロクにせず、気ままで怠惰な生活を送っていました。

それでも父親から毎月きちんと十分な生活費を送金してもらえました。
それを私は当然の権利として受け取り、さして親に対して感謝する気持ちも薄かったと思います。

子供として最低だったのかもしれません。

その後、何とか卒業して大阪のメーカに就職しました。

私が社会人になって忙しさに追われていたころ、父親は定年退職して毎日家でぶらぶらしていました。

 

父の死後、父の気持ちを知る

それから数年して父は胃がんになり、帰らぬ人となりました。

今まで父が生きていた時は、うるさくて敬遠していたのですが、いざこの世からいなくなってしまうと、何か私を支えてくれる柱がぽっきり折れた喪失感を味わいました。

父の遺品を整理していましたら、大学ノートに父が書きためていた日記帳が見つかりました。

そこには母が一人残された時の心配や、自分に尽くしてくれた感謝の言葉が書き連ねてありました。

母はそれを見ながら涙ぐみ、今も大事に保管して、時々読み返しています。
何物にも代えがたい父親から母親への贈り物でした。

私については、いろいろ苦言が記載されていましたが、やっぱり心配していたことが良く解かりました。

 

父の死後20年弱の時が流れていきましたが、母は元気に病気ひとつなく暮らしています。

毎日父の遺影に向かって語りかけ、感謝の言葉を述べています。

母親にとって父は最高の夫だったのでしょう。